文豪・文化人たちに愛されたまち

 大正時代から昭和初期にかけて我孫子には、志賀直哉、武者小路実篤、柳宗悦、バーナード・リーチなど多くの著名な文化人が居を構えたり別荘を持ったことでも有名です。そんなふるさと我孫子の歴史にまつわるお薦めのスポットです。

我孫子市白樺文学館

 白樺派(しらかばは)は、1910年(明治43年)創刊の同人誌『白樺(武者小路実篤と志賀直哉が発刊を話し合ったことだと志賀が日記に記している)』を中心にして起こった文芸思潮のひとつです。また、その理念や作風を共有していたと考えられる作家達のこと。白樺派の主な同人には、作家では有島武郎、木下利玄、里見弴、柳宗悦、郡虎彦、長與善郎の他、武者小路実篤は思想的な中心人物であったと考えられています。

 2001年佐野力氏が建設した文学館。敷地面積277.68㎡に地上3階地下1階鉄筋コンクリート造の建物。平成20年度に寄贈を受け、平成21年4月から我孫子市の運営で再出発しました。 

所在地:千葉県我孫子市緑2丁目11番8号


志賀直哉邸跡

 志賀 直哉(しが なおや)[1883年(明治16年)2月20日 - 1971年(昭和46年)10月21日]は、明治から昭和にかけて活躍した日本の小説家。白樺派を代表する小説家のひとりで、その後の多くの日本人作家に影響を与えました。代表作に『暗夜行路』『和解』『小僧の神様』『城の崎にて』など。1915年(大正4年)柳宗悦の勧めで千葉県我孫子市の手賀沼の畔に移り住み、1923年(大正12年)まで我孫子で暮らし、同時期に同地に移住した武者小路実篤やバーナード・リーチと親交を結んだ。

 緑雁明緑地。1980年(昭和55年)に我孫子市が買収し、母屋はありませんが、当時の庭木が残り、茶室風書斎が移築(当時の書斎が復元)されています。ここで「城の崎にて」「和解」「小僧の神様」「暗夜行路」などの作品が生まれました。

 毎週土曜日と日曜日10:00~14:00は雨戸が開放され、一般公開されています。※雨天時及び年末年始を除く

所在地:千葉県我孫子市緑2丁目7番


志賀直哉が住んでいた頃の我孫子の地図

杉村家所蔵図(訂正後 - 訂正時期不詳) 提供 : 我孫子市白樺文学館

旧武者小路実篤邸跡

 武者小路 実篤(むしゃのこうじ さねあつ)[1885年(明治18年)5月12日 - 1976年(昭和51年)4月9日]は小説家・詩人・劇作家・画家。貴族院勅選議員。大正5年の暮れから大正7年9月まで我孫子に住み、日向の「新しき村」に出発するまで我孫子に住む白樺派の志賀直哉、柳宗悦たちと毎日のように舟や徒歩で往来し、家族ぐるみの交流をした。岸田劉生、犬養健、梅原龍三郎、安倍能成、長与善郎ら錚々たる若手芸術家が訪れ、武者小路は「我孫子コロニー」の推進役となった。「白樺美術館」設立を提唱し、日本で初めて白樺派の仲間にロダンから贈られた彼の彫刻が我孫子にきた。また「我孫子刊行会」を創り『我孫子より』など8冊を刊行した。

 白樺派の創設者武者小路実篤は1916年(大正5年)から1918年(大正7年)まで居住し、志賀直裁や柳宗悦と交流。ここで「日本武尊」「AとB」などを執筆。「新しき村」の建設を唱え、宮崎県木城村へ移る。

 現在は地元民間企業が所有し、基本的に敷地内は非公開。

所在地:千葉県我孫子市船戸2丁目21番9号


三樹荘跡(柳宗悦邸跡)

 柳 宗悦(やなぎ むねよし)[1889年(明治22年)3月21日 - 1961年(昭和36年)5月3日]は、民藝運動を起こした思想家、美学者、宗教哲学者。宗悦は、1914年(大正3年)9月初旬25歳の時に我孫子へ移住し、1921(大正10年)3月までを過ごしました。

 柳宗悦の邸宅跡で、邸内の椎の三大木が居宅名の由来。居住は1914年(大正3年)から1921年(大正10年) 民芸運動の始祖・宗教哲学者。兼子(かねこ)夫人は声楽家。イギリスの陶芸家バーナード・リーチが邸内の窯(かま)で作陶。後に陶芸家河村蜻山(せいざん)も居住。現在敷地は一般宅のため非公開。

 三樹荘跡脇には、ハケ道へと続く天神坂があります。

所在地:千葉県我孫子市緑1丁目9番13号


バーナード・リーチ碑

 Bernard Howell Leach(バーナード・リーチ)[1887年1月5日 - 1979年5月6日]は、イギリス人の陶芸家であり、画家、デザイナーとしても知られる。日本をたびたび訪問。1916年、柳宗悦に誘われ我孫子の三樹荘に窯を築いて作陶に打ち込みますが、1919年、窯が焼失したのを機に我孫子を離れました。白樺派や民芸運動にも関わりが深く、日本民藝館の設立にあたり、柳宗悦に協力しました。

 1974年(昭和49年)、リーチの活動を顕彰した記念碑が手賀沼公園(我孫子市生涯学習センター アビスタ駐車場隣)に建てられました。東洋と西洋の融合というリーチの理想像が表現されています。

所在地:千葉県我孫子市若松26-4


手賀沼保勝会

 国による手賀沼干拓計画が発表され、杉村楚人冠や同地に別荘を持つ柔道の嘉納治五郎、東京帝大教授村川堅固らは美しい手賀沼の景観を保つため手賀沼保勝会を作って干拓反対の運動を進め、保全に尽力しました。

我孫子市杉村楚人冠記念館

 杉村 楚人冠(すぎむら そじんかん) [明治5年7月25日(1872年8月28日) - 昭和20年(1945年)10月3日]は、新聞記者、随筆家、俳人である。本名は杉村 広太郎(すぎむら こうたろう)。別号は縦横、紀伊縦横生、四角八面生、涙骨など多数。朝日新聞社調査部長、記事審査部長、監査役、相談役を務めた。関東大震災後、それまで居を構えていた東京・大森を離れ、かねてより別荘として購入していた千葉県我孫子町(現我孫子市)の邸宅に移り住み、屋敷を「白馬城」と、家屋を「枯淡庵」と称した。この地を舞台に、名エッセイ集『湖畔吟』など多くの作品を著した。 星新一や福原麟太郎など、楚人冠のエッセイに影響を受けた作家や知識人は少なくない。また、俳句結社「湖畔吟社」を組織して地元の俳人の育成に努めたり、我孫子ゴルフ倶楽部の創立に尽力し、『アサヒグラフ』誌上で手賀沼を広く紹介するなど、別荘地としての我孫子の発展に大いに貢献した。

 我孫子市は2009年に杉村家より邸宅を譲り受け、翌年に我孫子市指定文化財に指定。旧邸(母屋、蔵、茶室、澤の家)を記念館、庭を邸園とした。楚人冠と家族が残した書籍1909点、書簡2330点、スクラップブック・日記などの書類約2100点、写真約1700点、愛用品約370点を所蔵。

所在地:千葉県我孫子市緑2丁目5番5号


杉村楚人冠碑(楚人冠公園)

 杉村楚人冠は戦前の朝日新聞の最高幹部でした。大正13年に我孫子に移住し、昭和20年我孫子市で没しました。俳句結社「湖畔吟社」を主宰し、地元文化の育成に努め、大きな功績を残しました。河村蜻山作の陶製の句碑が建てられています。

 所在地:千葉県我孫子市緑2丁目4番 楚人冠公園内(緑南作緑地)


旧村川別荘

 村川 堅固(むらかわ けんご)[1875年1月28日 - 1946年1月21日]は日本の西洋史学者。熊本県生まれ。1898年 文科大学(東京帝国大学)史学科卒業。1900年 陸軍大学校教授嘱託、英語圏における日本史研究の嚆矢として知られるジェームズ・マードックの「日本の歴史」の執筆を手伝う。1903年 ヨーロッパに留学 1906年帰国、文科大学助教授に任ぜられ、1912年、教授。西洋古代史を専門とし、日本におけるこの分野の開拓者である。エジプト古代史、ギリシャ文化史、ローマ史などを講じ、著書として『西洋上古史』(1916)『ギリシャ史』(1931) などがある。古代のみならず西洋史一般に関心が深く、特に日本と西洋の交渉史研究が多かった。ペイソン・トリートの『日米外交史』の訳(1922) レオポルト・フォン・ランケの『世界史論進講録』(1918)は名訳とされた。自ら設計し建築された別荘は千葉県我孫子市にあり「旧村川別荘」として千葉県の近代産業遺跡となっている。

 

 村川 堅太郎(むらかわ けんたろう)[1907年4月13日 - 1991年12月23日]は西洋史学者。東京大学名誉教授。日本学士院会員。東京帝国大学教授・村川堅固の子として東京浅草に生まれ、成蹊中学、浦和高等学校を経て、1930年東京帝国大学西洋史学科卒、1940年東京帝国大学助教授、1947年教授。1968年定年退官により名誉教授。日本における、古代ギリシャ、ローマ研究の基礎を構築した。1959年、随筆「地中海からの手紙」で日本エッセイスト・クラブ賞受賞。

 敷地面積は約3,000㎡ 沼への傾斜地を切り開いての起伏にとんだ邸内には多くの樹木が植えられ、秋にはもみじが庭に彩りを添えます。

 別荘は江戸の佇まいを残す純和風の建物「母屋」と、反りのきつい屋根が特徴的で、建立した村川堅固が「朝鮮風」と表現している和洋折衷の建物「新館」と呼ばれる2つの建物があります。

所在地:千葉県我孫子市寿2丁目27番9号


嘉納治五郎別荘跡(天神山緑地)

 嘉納 治五郎(かのう じごろう)[1860年-1938年]は東京大学文学部政治学科および理財学科を卒業し、学習院教授、第五高等学校(後の熊本大学)校長、東京高等師範学校(後の東京教育大学・筑波大学)校長を務めるなど、教育者として知られています。また、天神真揚流・起倒流柔術を学び、心身の力を効果的に使用して人間と社会の進歩に貢献することを説いて「柔道」と称し、明治15年(1882年)講道館を開きました。早くから柔道を海外に普及し、柔道が世界各国で行われる基礎を築きました。国際柔道連盟規約第一条には「国際柔道連盟は嘉納治五郎によって創設された肉体と精神の教育体系を柔道と認める」と定められています。明治44年(1911年)現天神山緑地に別荘を、我孫子市白山に農園を設けました。大正3年(1914年)には三樹荘に甥の柳宗悦・兼子夫妻を呼び、柳は友人の志賀直哉、武者小路実篤を我孫子に誘い、白樺派の文人たちが集いました。

 講道館柔道の創始者であり、手賀沼を愛した嘉納治五郎の別荘跡地が「天神山緑地(公園)」として2014年4月1日から開園しています。

 別荘跡には嘉納治五郎が住んでいた頃の建物などは残っていませんが、文人たちが憩う別荘地としての我孫子を作った原点は嘉納治五郎と言えることから、我孫子市はここを購入し、保全しています。

所在地:千葉県我孫子市緑1丁目10番 

    ※天神坂を上り、三樹荘跡の目の前です。


相島(芸術文化村)

 江戸時代には利根川舟運の主要な港町として栄えた布佐郊外の相島新田。相島新田は井上家が開いたことで知られています。井上家は江戸時代前期から江戸尾張町で食料雑貨商「近江屋」を営んでいましたが、4代目の井上佐次兵衛の代に「享保の改革」の一環として実施された手賀沼干拓事業に参入し、この地に移住しました。

旧井上家住宅

 歴史的建造物である旧井上家住宅は、国の登録有形文化財に登録され、文化活動のの拠点となっていました。その後平成24年12月に我孫子市指定文化財(第14号)になりました。

 敷地には9棟の歴史的建造物が現存。手賀沼開墾に尽くした豪農と屋敷景観を今日にとどめる貴重な文化遺産となっています。

所在地:千葉県我孫子市相島新田1番地 ※整備中のため現在は一部公開


瀧井孝作仮寓跡(寿古墳公園)

 瀧井 孝作(たきい こうさく)[1894年-1948年]は小説家・俳人。岐阜県高山生まれ。俳人 河東碧梧桐に師事し、俳句を学びます。のちに雑誌「改造」の記者として志賀直哉に出会い、小説家になることを決意。大正11~12年我孫子で生活し、小説「無限抱擁」を発表し、一躍有名になりました。この小説は彼自身の実体験に基づくもので、傷心の男が友人の住む我孫子に転居し、沼沿いの丘の上には森林が続き、まだ電灯がなくランプのみで生活していた様子が描写されています。「無限抱擁」を書き上げた後、志賀を追うように大正12年、我孫子を離れました。

 子の神古墳群と呼ばれる14基の古墳のうち、4,5号墳ははっきりと盛り土(墳丘)が分かる円墳です。4,5号墳がある場所は、瀧井孝作が仮住まいをした場所です。

所在地:千葉県我孫子市寿2丁目23番42号


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